(549)原爆の日に想う

今日は広島に原爆が投下された日である。当時私は国民学校の4年生、学校には玄界灘からの敵の上陸を想定して、軍隊が駐屯していた。教室がその宿舎となっていた。時々そこに私は遊びに行き、一人の兵隊さんと仲良くなった。ある日、廊下との仕切り越しにその兵隊さんと話していた時、その兵隊さんが郷里の方にすごい爆弾が落ちたとかで、家族が心配だと話してくれた。もう75年も前のことであるけれども、それは鮮明な記憶でその光景も浮かぶ思い出である。以前にもこのことは記した。
核兵器廃絶、あれから75年叫ばれてきた、しかし、今やその想いと裏腹に莫大な核兵器の貯蔵と製造が続く。多くの人民は平和な暮らしを望んでいる。しかし、紛争や戦争はなくならない。人間に欲望がある限り争いはなくならないであろう。しかし、良識と理性が有ればそれは抑制はできるはずであるが、残念ながら世の指導者の中にはそれとおよそ離れた者が多い。
今なお専制、独裁を貫く指導者が居り、彼らは人民を戦火に巻き込んでも己の欲望をみたしたいのである。
何故これらの者が指導者になるのか。
全体主義国家は何をか言わんかであるが、民主主義国家でも、選挙結果このような者を指導者に選んでしまう。誰かが民主主義は必然的に独裁者を生むといった。ヒットラー総統を生んだことはそれがこれの最たるものであろう。
往々にして、これらの者は自己の征服欲顕示欲が旺盛で、また、表現表出に長けており、その雄弁な弁舌で民衆を引きつける。
恒久の平和などを幾ら訴えてもそれでは多くの人民は満足しない。己の目先の欲望を満足されることを望み、そこにつけ込んでうまくまくし立てるものが、選挙に勝つ。そして、その結果、戦争や騒乱を呼び悲劇を招く。核兵器が使われる。
要は人民の良識ある指導者を選ぶ冷静な認識と目と知恵が平和な世界を生むのであるが、これが言うは易しで、なかなかできない。
何か、民主主義に代わり、平和に近づく新しい政治システムが出来ないものか。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント