(516)秘話:薩士一二人被斬首の地(西南戦争の裏側)

縁者に薩士一二人斬首の一人(曾孫)が居て、先日表記の地にお参りした。

明治10年西南戦争では薩軍は次第に追い詰められ後退を余儀なくされていた。そして、兵員の補充を迫られていた。しかし、乱そのものに批判的な人達も居て、それに応えず従軍を拒否した人達が居た。*再三の説得にも係わらず最後まで拒否し続けた12名の人達は行を募兵と共にしていた途中、軍の士気高揚のため仕方なく四月四日熊笹におおわれた出水市上場六ケ所に連行され斬首された。*(*以下は出水市教育委員会「出水の文化財―史跡と文化財」に依る)

12名他に更に若干名居たともいう。

我々はこの地を訪ねるのに場所が特定できず迷い迷いしながらであった。上場高原と名付けられた高地の小さな草原を更に奥に踏み入れやっと牧場敷地内に有ったこの碑に行きつけた。草に覆われた山道脇の斜面の中にひっそりと建っていた。どなたかがお参りしてくださっているようであった。我々もお参りした。


島津久光公は西郷隆盛とはそりが合わなかったとかで西南戦争に批判的で、政府は勅使柳原侍従を派遣し、薩摩藩出身の高島少将も随行させ久光公などの説得に努めていた。久光公は若かりし頃城主として重富郷平松城に居た時期もあり重富郷辺り人々には久光公に従うものが多かったとか。

詳しいことはよく知らないし、色々な話も伝わっているので、正確でないかも知れないが、そんな背景が有ったようだ。また、人づての話として、若い武士が斬首を行ったが、一刀のもとに首を刎ねることができず、切られる人達は血しぶきの中でもがき呻き苦しみ、この上なく凄惨なものであったとか。

そして、遺体は何処に運ばれたか判らないが、その後地元の人達が有り合わせの石を現場に積み弔っていた、た。しかし、その後その石も道路工事に使われてしまい、今草に覆われ草生して残る石は牧場主が改めて置いたもので、更に命日の平成4年4月4日のに市内の篤志家の手によって現在の碑が建てられた。


平和な時代であれば、人々が平穏に暮らしておる時であれば、同郷近隣の人達同志であり、仲睦まじく交流や関係を続けることが出来たであろうに、戦争であるが故に命を奪い、奪われた。その後生き残ったであろう奪った側の当事者も生涯どのような想い心境で生きたのであろうか。奪われた側の子孫も未だに心の癒えないわだかまり、悲哀を抱えている。斬首の際残された息子への想いを叫びながら逝った人も居たとか。

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